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静岡県の地名の由来~長田北・長田西・川原・長田東・長田南小学区~

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東西南北に大きく広がる静岡県。その地名は非常に多くあり、また変わった地名も数多く存在します。

静岡在住の方であれば、仮に難読な読み方をする地名も簡単に読めるでしょうが、他県の人からすれば頭を悩ますことでしょう。
しかしその地名のルーツや由来となった事柄に関してはほとんどの人が分からないのではないでしょうか。

そこでその地名に決まるまでどういった経緯があったのかについて地域別にご紹介したいと思います。

今回は『長田北・長田西・川原・長田東・長田南小学区』を特集します。

この五学区は昭和9年に静岡市に合併した安倍郡長田村の村域にあたります。
長田のルーツはおよそ1000年前まで遡り、6世紀頃から住んでいた他田舎人と呼ばれる一族にちなむものと考えられています。

それがやがて長田となり、中世には長田庄という荘園となりました。
その後明治22年、17個もの村が長田村を結成し、再び地名が復活しました。

長田村を結成した17個もの村は丸子、宇津ノ谷、手越、手越原、寺田、鎌田、丸子新田、向敷地、広野、用宗、石部、小坂、大和田、青木、上川原、下川原、東新田で、これらはいまも存続している。

【手越の由来】

古文書によると手越浦と記載されていたようで、この付近から東南方向は遠浅の海でした。
平安時代頃から既に宿場として栄え、遊君の里としても知られていました。

手越の意味については、向敷地から丸子宗小路へ向かう坂をかつては「手児の呼び坂」といい、それを略したようです。
「テコ」は「アテコ」すなわち女性の美称のことです。

あるいはこの地が安倍川の渡渉点であり、手ずから川を越したことにも由来されるようです。

【手越原の由来】

旧街道を挟んで手越に南接します。
江戸時代には手越までが安倍郡で、ここから南は有渡郡でした。

その名の通り、安倍、藁科川、丸子川によって形成された沖積原野を開拓した土地で、江戸時代には既に一つの村として形成していました。

【向敷地の由来】

手越から安倍川沿いに北方向へ伸びている地区です。

地名の由来は、有渡郡の敷地村に対してにものか、あるいは手越駅が成立する頃の東海道が、丸子宗小路から峠越えで向敷地に通じていたと考えられ、今の丸子側から見て「向こうの新地」という意味かもしれません。

【丸子の由来の由来】

東海道五三次ぎの一つとして栄えた丸子宿があった地であり、地名の由来は、丸子はもともと麻呂子すなわち男子のこと、手越は貴子(あてこ)すなわち女子の事で、年に一度男女が会集して、妻選びをする風習に基づくのだと言います。

元来、丸子という地名は川岸に多い地名であり、川岸に住む丸子という部族が作った集落であると解釈されています。

静岡の丸子も丸子川とその支流一帯を指し、東海道に沿った宿場町のほか、東海道の北側、南側に幾筋かの谷が刻まれ、その谷沿いに集落が出来ていきました。

丸子は江戸時代の初めからとろろ汁が名物として知られていました。
山芋をすりおろし味噌汁で伸ばして、麦飯にかけ、海苔や刻みネギをかけて頂きます。

「梅若菜 丸子の宿の とろろ汁」と芭蕉の句にも登場し、その人気ぶりが良く分かります。

【丸子芹ヶ谷町の由来】

長田西小学校の裏を流れている丸子川の西側の谷戸で、丸子川の遊水地の役目を持った地域でありますが、近年、立派な住宅地へと変貌しました。

芹ヶ谷というのは昔からの小字です。

【宇津ノ谷の由来】

宇津ノ谷峠の東口の集落です。
ここを超えれば岡部町へと行くことが出来、東海道の難所の一つでした。

古文書には「内屋郷」は今の宇津ノ谷から丸子、手越、鎌田などを含む一帯を指すと考えられています。
ウツは渓谷を意味する地名であり、語源を「兎路」とする説もあります。

【寺田の由来】

鎌田の西に続く集落です。
これも同じく寺領であった時代があったようです。

古文書によると、「内屋郷仏光寺田」がここだといい、あるいは富向山小野寺の寺田だったともいうようです。

【鎌田の由来】

南北朝時代の記録に、鎌倉円覚寺の寺領として挙げられている鎌田がここであろうと考えられています。

立地条件から見て、鎌田の本来の意味は、蒲田、つまり「ガマ」の生えるような湿地帯の田ということのようです。

【丸子新田の由来】

丸子宿の伝馬役の秣場(まぐさば)として開かれた新田です。
伝馬町における伝馬町新田と同じ性格の新田です。

【東新田の由来】

こちらも手越河原を開いた新田です。
もともと小坂村の農民が開発した土地なので、小坂から見て東に当たるため、東新田と呼ばれるようになりました。

【上川原・みずほ】

安倍、藁科および丸子川の氾濫原を開墾した新田です。
江戸時代になって本格的に開梱された新田地帯なので、それ以前は手越川原と総称されていました。
住居表示の際、いずれも小字名が町名に採用されました。

【広野の地名】

手越河原に続く広い野原だったので、こう呼ばれたと言われています。

【青木の由来】

古文書によれば、むかしむかし、村人たちがここに居をかまえるにあたり、原野の中に一本の楠の大木があったので、それで青木村と称し、その楠の木の大木があったため、それを青木村と称したことが始まりのようです。

【大和田の由来】

今の大和田は高草山東麓の一角にありますが、むかしは山裾辺りから東南方向は海で、付近一帯を「大和田の浦」と称していました。

和田という地名は元来、入江などに多く付けられる地名です。
現在の大和田・南部の平地は江戸時代に東隣の青木村が開いた開拓地です。

【小坂の由来】

小坂から石部方面へと向かう坂を「赤坂」といい、日本坂が大きいのに対して「小さい坂」という意味で、小坂の地名が出来たと言われています。

みかん栽培が古くから盛んに行われており、当時の書物に、「密柑垣内(みかんかいと)」という地名があります。

【用宗の由来】

東西に細長く伸びる砂丘上に位置している町です。
用宗の地名は「持舟」の転化したものと言います。

持舟の名が示すように碇泊地が古くからあり戦国大名の今川氏に代わって持舟城を領有した武田氏がここを持舟湊として整備し、水軍を置きました。

東海道線の用宗駅が置かれてから急激な発展の途を歩み始めました。

【用宗城山町・用宗巴町の由来】

昭和48年の住居表示で生まれた町です。
用宗城山町はJR用宗駅とその背後の城山を含む地域で、室町時代末期の持舟城が築かれたところです。

用宗巴町は大部分が巴川製紙用宗工場で占められ、社名の一字を町名としました。

【港の由来】

用宗漁港の地籍として用宗・広野の各一部を持って、昭和48年の住居表示で生まれました。

【用宗小石町】

昭和47年の住居表示で新設された町です。

持舟城北側の一面にある住宅地で大字小坂と石部・用宗の各一部からなり、小坂と石部の頭文字をとって町名とした説もあります。

【石部の由来】

用宗から焼津市までが石部で、静岡・焼津両市境にまたがる海岸を大崩と総称します。

昔からしばしば山崩れがあり、奇石が多いことで知られています。
石部の地名もそれに因んでおり、以前は「イシベ」とも呼ばれていました。

【下川原の由来】

徳川家康が鷹狩りの途中でこの村に立ち寄り、「川原村」の村号を与えたと記されています。

【桃園町の由来】

桃園町は、下川原・丸子新田・広野・上川原の各一部からなります。
昭和49年に下川原団地ができたことで急速に人口が増えました。

広野から下川原にかけて、桃畑と梨畑が広がっていた地域で、今は桃畑は減ってしまいましたが、桃園の名前がそのまま自然と町名となりました。

【光陽町の由来】

鎌田と下川原の飛び地、下川原の一部をもって誕生した町です。
付近に光用院という寺があり、町名を決める際に、住民から寺の名前に因んだ町名にしたいとの希望があったので、光用院の光用から「光陽」の名前がつけられました。

また、日当たりの良い明るいところという意味も込められていたようです。

以上が『長田北・長田西・川原・長田東・長田南小学区』の地名の由来・ルーツになります。

あなたの住んでいるところは有りましたか?
自分で調べてみるのも面白いかもしれませんよ。
参考文献

飯塚伝太郎著
長倉智恵雄補筆
『しずおか町名の由来』