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静岡県の地名の由来~安西小学区~

薩摩土手

東西南北に大きく広がる静岡県。その地名は非常に多くあり、また変わった地名も数多く存在します。

静岡在住の方であれば、仮に難読な読み方をする地名も簡単に読めるでしょうが、他県の人からすれば頭を悩ますことでしょう。
しかしその地名のルーツや由来となった事柄に関してはほとんどの人が分からないのではないでしょうか。

そこでその地名に決まるまでどういった経緯があったのかについて地域別にご紹介したいと思います。

今回は『安西小学区』を特集します。

かつて安倍川は今よりずっと東方の、市の中央部を流れていました。

「安西」の地名はそれを示すもので、安倍川の西の意味なのであります。

この学区は元々安西の地名を冠されていた部分が大きく、駿府の北側でありました。
安倍川を藁科川に合流させるための薩摩土手が築かれたことにより、土手の内側を開墾されていったところなのです。

【安西一丁目、二丁目の由来】

安西通り沿いある町で、江戸時代から府中に属していました。
安西は一丁目から五丁目まで有り、一丁目、二丁目を本安西町と言い、三丁目、四丁目を安西井宮村の高内で安西方と言われていたようです。

五丁目に至っては薩摩土手の外提と内堤に囲まれた部分、すなわち後の安西外新田に出来た町で、それまで車町にいた牛方(牛車による運搬業者)が移住してきて以来、牛町と呼ばれるようになりました。

【八千代町の由来】

安西一丁目南裏町を大正4年に八千代町と改めました。
末永く栄えるようにとの願いを込め命名されました。

【安倍町の由来】

徳川家康の家臣、安倍大蔵少輔元真が住んでいたためそう呼ばれていたという説もありますが、もっと古く、この辺りが「安倍郡」の中心だからそう伝えられてきたのではないかという説もありこちらの説のほうが有力です。

【片羽町の由来】

静岡浅間神社の西隣の町です。
元々は浅間神社の社領であったようです。

肩羽は肩端に通じ、片側町という意味があるようです。
慶長11年の町割りで、浅間神社のある賤機山側は町家の建設が許可されなかった事に因んでそう呼ばれるようになりました。

【材木町の由来】

安倍川が浅間神社に脇に流路を持っていた頃、上流から流した安倍山中の材木がこの町で水揚げされました。
材木を商う町というのがそのまま町名となりました。

【井宮町の由来】

市域編入前は安西井宮村で府外でした。賤機山に沿った一帯で、明治42年、安西、安西内新田、安西外新田とともに市に編入してからは井え宮となり、大正13年に現町名へと改称しました。

町内にある井宮神社にちなんで命名されました。

【末広町・神明町・若松町・水道町の由来】

いずれも大正13年に大字安西を分割して出来た町で、この時、安西からは上記四つの町と辰起町の5つの町が出来ました。
薩摩土手が出来たことによって開発された村ですが、明治期まではほとんど人家はありませんでした。

その後、製茶、製材の工業地域として急激な発展をみたため、新町の設置に至りました。
末広町、若松町は、将来の発展を願い命名、神明町は村社神明宮にちなみ、水道町は市内への用水取入口があるため命名されました。

~薩摩土手について~

静岡市は安倍川と藁科川が運んだ土砂の上に出来た町です。

僅か数百年前まで安倍川は今の浅間神社の脇を流れ今の市街地に幾筋かの支流を巡らしていました。

戦国大名の今川氏がこの扇状地に屋敷を置き、そのあとの徳川家康公も隠居の地として静岡を選びました。
将軍職を降りた家康はその後駿府城の大拡張工事をしました。
そこで問題となったのが安倍川による水害でした。

城の北側に土手を築き安倍川を西へと追いやって藁科川と合流させることとしました。
この土手に用いた石材は九州薩摩藩の島津忠恒が国元から送ったものでであり、そのため完成した土手を「薩摩土手」と命名したようです。

もともと番町というのは侍屋敷のある町のことであり、家康在城時は安西通りを境にして北と南に番町を作りました。
その後南三番町は区画整理などにより無くなり、北番町だけが残りました。
以上が安西小学区の地名の由来・ルーツになります。

あなたの住んでいるところは有りましたか?
自分で調べてみるのも面白いかもしれませんよ。
参考文献

飯塚伝太郎著
長倉智恵雄補筆
『しずおか町名の由来』