静岡県の地名の由来~『中田・森下小学区』と『南部・富士見・宮竹小学区』~
東西南北に大きく広がる静岡県。その地名は非常に多くあり、また変わった地名も数多く存在します。
静岡在住の方であれば、仮に難読な読み方をする地名も簡単に読めるでしょうが、他県の人からすれば頭を悩ますことでしょう。
しかしその地名のルーツや由来となった事柄に関してはほとんどの人が分からないのではないでしょうか。
そこでその地名に決まるまでどういった経緯があったのかについて地域別にご紹介したいと思います。
今回は『中田・森下小学区』と『南部・富士見・宮竹小学区』をまとめて特集します。
『中田・森下小学区』
両学区は駅南地区の旧豊田村と旧大里村のそれぞれ一部にあります。
八幡神社および久能山への参道沿いには古くから集落が開け、国鉄静岡駅の設置に伴って早くから市街化していきました。
【黒金町の由来】
旧国鉄(現JR)静岡駅とその周辺、延長2キロに渡る広大な地域です。
昭和20年、各地域との合併により新設された町です。
黒金はすなわち鉄「くろがね」で鉄道に因んでいます。
【和泉町の由来】
昭和20年、各地域との合併により出来た町です。
町名の由来は小字、樋泉(といずみ)から取ったものとされています。
また安倍川の伏流水が泉の如く湧きでるからとも言われています。
【南町の由来】
昭和7年、南安東の一部で南町一丁目、二丁目を新設し、その後の住居表示で南町としました。
静岡駅の南口にあるため、それが町名となりました。
【森下町・さつき町・大和の由来】
南安東の一部で森下町一丁目~三丁目と東森下町を設けました。
線路と八幡山とにはさまれた地域で、町名は旧字名を用いました。
昭和20年の区画整理で、森下町一丁目を母体とする森下町を新設。
八幡街道に沿った森下町二丁目を八幡本町一丁目とし、森下町三丁目を大和町と改称しました。
その後昭和45年の住居表示に伴い東森下町をさつき町と改称しました。理由は明らかにされていませんが、さつきは5月で、1年中でいちばん良い季節を象徴したのではとされています。
【馬渕の由来】
真渕が本来の意味であったとされています。
安倍川氾濫原の低湿地だった頃の名残を残す地名です。
【中田の由来】
中田の地名は古く、中田保、中田郷、中田七村などと現在の駅南地区中央部を広く総称した呼び方のようです。
ただし、1つの村としての成立は新しいようで明治に入ってからのようです。
中田の地名は田園地帯の中央に位置する為とも中田によるものと言います。
【大坪町の由来】
昭和41年の住居表示により、大字八幡の一部で新設しました。
町名は旧来の小字名を用いました。
曲金、八幡、有東にかけて古い地図を見ると、基盤の目のように正方形の水田区画が出来ています。
大坪というのはそういった区画を指すようです。
【稲川の由来】
これもまた、安倍、藁科両川の支流が幾筋か貫流していた頃の地名だと言われています。
【八幡の由来】
八幡の地名は八幡山にある八幡神社にあります。
古くから駿府の国の国府八幡として崇拝され、賤機山の浅間神社と並ぶ信仰の拠点でありました。
《八幡神社》
八幡山一番地。
源の義家の創建とも再建とも言われていますが、武田信玄の駿河侵攻の際に戦火にかかって書物を失ったため由緒は定かではありません。
『南部・富士見・宮竹小学区』
両学区は八幡山の南方にあたる静岡平野の一画であります。
有東遺跡や登呂遺跡の発見によって弥生時代から集落が作られていたことが知られています。
【石田の由来】
江戸時代、石田村は久能山東照宮の神領でありました。
古い書物によると、弁志田池(へしだいけ)と呼ばれたところがあって、池が埋まり田になったようです。ヘシダがヒシダになりさらにイシダに変わったためこの名前が付いたといいます。
また耕土に石が沢山混じっていたからとも言われています。
【南八幡町の由来】
昭和45年、大字有東と八幡の各一部で新設した町です。八幡山の南で八幡5丁目に南隣するためこの町名となりました。
【有東の由来】
全国的に分布するウトウの地名は、狭間の道や切り通し状になった地形に多い。
静岡の有東も八幡山ち有東山との間に道路が開かれ、切り通しに似た形状をもっています。
また、アイヌ語のウトウは突起を意味するといい、静岡平野にポット突き出た有東山をそう呼んだのが地名の始まりかも知れません。
集落の起源は古く、有東遺跡は登呂遺跡の先駆をなすものと考えられています。
【有明町の由来】
小黒通りの西側に沿う町です。
昭和45年、大字有東、八幡表町、小黒六、七丁目、大谷の一部で新設しました。
有東の一字を取り将来の発展を祈願して付けられました。
【富士見台の由来】
昭和48年、大字大谷の一部で新設しました。
富士山は見渡せますが、台地ではなく、あくまでも平地であるため名前の由来については不明。
【登呂の由来】
昭和18年、軍需工場の建設工事の際に、偶然発見された遺跡によって、登呂の地名は全国的に知れ渡りました。
遺跡は弥生時代後期の住居跡と水田跡を含む大規模なもので、第二次世界大戦後、いち早く発掘調査が進められ、日本の考古学の歴史を大きく飛躍させることとなりました。
登呂はもともと高松村の小字名で瀞(とろ)、泥に通じ、泥田あるいは湿地帯を意味する地名だと言われています。
【宮竹・敷地の由来】
江戸時代は浜街道沿いに家があるだけで、北側は一面竹などが茂っていた低地で、その景観がそのまま地名となったようです。
ややこじつけのように見られますが、「敷地」の「シキ」は「シグ」に通じています。
以上が『中田・森下小学区』と『南部・富士見・宮竹小学区』の地名の由来・ルーツになります。
あなたの住んでいるところは有りましたか?
自分で調べてみるのも面白いかもしれませんよ。
参考文献
飯塚伝太郎著
長倉智恵雄補筆
『しずおか町名の由来』